祖納集落内
新盛家住宅は、祖納の集落内にある沖縄県内に現存する最古の木造茅葺き民家で、築150年程度と推定されています。家屋は、柱や梁にはキャンギ(イヌマキ)など、茅を乗せる部分にはプシキ(ヒルギ)などの西表島産の木材が用いられ、釘や金具ではなく木の楔(くさび)を使用する「貫屋(ヌキヤー)」と呼ばれる伝統的な造りで建てられています。周囲はフカイキ(フクギ)とサンゴのグシク(石垣)に囲まれています。
2011年に10年ぶりに、集落の人々総出で茅葺き屋根の葺き替えがされました。
敷地の西側が「ミリク道」と呼ばれる集落の主要な通りに面しているので、一般的な屋敷の形式とは逆に、一番座が西側に置かれています。
▷ 地図A
浦内川駐車場より約1km
宇多良炭鉱跡は浦内川の支流ウタラ川付近において、1935年(昭和10年)から1943年頃まで稼働していた炭坑の跡地です。沖縄県内で唯一の炭坑であった西表炭坑の中の代表的な炭坑のひとつでした。当時は、ジャングルが切り開かれ、坑夫の宿舎や集会所、食堂、医務室、売店などが設置され、数百人が生活する炭坑村がつくられていましたが、現在では、わずかにトロッコレールを引きこんだレンガ柱の遺構などが残っているだけです。
浦内川駐車場より炭鉱跡まで約1kmの遊歩道が整備されています。満潮時はカヌーでのアクセスも可能です。
▷ 地図B
祖納
大竹祖納堂儀佐屋敷跡は祖納の上村(旧集落跡)にあり、跡地には小さな石碑が建てられています。
大竹祖納堂儀佐は、14世紀~15世紀頃に大陸方面より鉄板などの鉄製品を持ちこみ、鍛冶を始め農具をつくり、農業を盛んにした人物で、西表島で最初に歴史に名を残します。与那国島を支配下に納めることに成功したという記録があり、また、身の丈6尺余もあり一夜にして与那国まで舟で漕ぎ渡り戻ったと言い伝えられており、その人物像を想像することができます。
祖納で行われるすべての神行事は彼を祀った大竹御嶽(大嵩根所)を中心に執り行われます。
祖納
慶来慶田城翁屋敷跡は祖納の上村にあります。慶来慶田城用緒(ようちょ)は、「慶来慶田城由来記」によると1490年代に外離島に現れ、単身石垣島へ渡り平久保の豪族「加那按祠(かなあじ)」を討ち果たしたと記せています。
その後、首里王府に反旗をひるがえした八重山の歴史上有名な事件「オヤケアカハチの乱(1500年)」で活躍した功績により、首里王府から「西表首里大屋子(いりおもてしゅりうふやく)」の官職を与えられた人物で、西表島に君臨し、祖納に西表村番所を置き、一時代を築き上げました。また、祖納の前泊浜の沖「パナリミジュ」に現れる南蛮船と盛んに交易を行っていたと言い伝えられています。
初代用緒の墓は下原頂(すんばれてぃち・通称がんぱら)に建立され毎年清明には子孫が集い先祖の徳に感謝し清明祭を執り行っています。
祖納
ピサダ道は「慶来慶田城翁屋敷跡」と「大平井戸(ウヒラカー)」(別名ピサダカー)を結ぶ古道で、現在でも祖納集落の下村から上村へ行くのに利用されている長さ100mほどの石畳の道です。
国の重要無形民俗文化財に指定されている「節祭」が、上村を中心に執り行われていた頃、この急坂を旗頭を立てて降りていたという武勇伝が、今でも語り継がれています。
祖納
大平井戸は、祖納の集落内にある井戸で、長いあいだ祖納の人々の飲料水として、その生活を潤してきました。「ピサダ」と呼ばれる水田地帯にある井戸ということから通称「ピサダカー」と呼ばれています。
節祭では、3日目のトゥミズの日に、井戸の周りで水恩感謝の「ウヒラカーの儀式」が執り行われます。
仲間川付近(大富集落側)
仲間川河口部に形成された1000~1200年前の貝塚です。石器、貝製品、角釘、開元通宝、青磁片、貝殻類、獣魚骨、焼石などが出土されていますが、土器がまったくみられないのが特徴です。県道沿いに石碑が建てられています。
仲間川付近(大富集落側)仲間第一貝塚に隣接
仲間第一貝塚の北側に隣接する貝塚です。大量の石器と共に下田原式土器も出土されています。仲間第一貝塚よりも古い年代の貝塚です。
古見
後良川の河口の小島「平西島」にある中世期の貝塚です。